こんにちは、木ノ下コノキ(@kinoshitakonoki)です。
(これは2019年2月の日記です。)
昨日はですね、こんなことあったんですよ。
今、Twitterで見た絵を母親に見せたら
— 木ノ下コノキ@LINEスタンプ販売中! (@kinoshitakonoki) 2019年2月11日
母親に「あんたも頑張ってキャンバスに絵描いたら?」言われて
「私もいつも頑張って絵描いてるじゃん、デジタルの絵を」言ったら
鼻で笑われた上、バカにされたような表情された。
絵を描く手段がアナログかデジタルだけなのになぁ。
なんかイヤな気持ち
思わずツイートしてしまうくらいに、いやーな気持ちになりました。
そして、こんな状態はずっと昔から存在します。
子供のころから否定ばかりされていた
どうせあんたにはできない
(将来の夢の話したら)そんなのなれるわけないじゃない
(なにか新しいこと始めようとすると)え?そんなことするの?やめなさい
と、やりたいことを頭ごなしに否定する。
そしてあまり褒められた経験がなかった。
私は褒められたくて、4歳から習ってた書道教室では中学の卒業前までに特待(5段の上)まで上りつめたし、書道や絵画コンクールではいつも賞を手に入れてた。
それを「すごい、よくやったね」って言われた記憶がほとんどない
中学高校
中学の進路を決めるときに私は、デザイン関係の仕事に進みたかったのでデザインの高校を第一志望にした。
というより、そこしか受けたくなかったので一本にしぼりたいと母に話したが、母は商業高校を進めてきた。母が通った高校だ。
商業を学んでいい会社に入ってお嫁に行く...が母の歩んだ道。それと同じように進んでほしいようだった。
だけど、絵を学びたかった。デザインの道に進みたかった。
今でもときどき母が、「あんたは昔からあまりこれがしたいあれがしたいと言わない子だったよね」というが、それは「言っても無駄」と子供ながらに感じてたことだったから。
だけど、進路の話だけは別だった。
たぶんこの時初めてってくらいに「○○高校に行きたい。デザインを学びたい」と自分のやりたいことをハッキリと伝えた。
母に気持ちが伝わったかどうか分からなかったが、父の「行きたい高校に行かせたらいい」という言葉に母も納得した。ただ、第二志望に母の通った商業高校も入れるのが条件だった。
その後、無事デザインを学ぶことになるのだが、その間の作品をほとんどまともに見てくれたことはないんじゃないのかな?
たぶん、卒業制作展(会場貸し切っての大きな展示会)くらいは見に来てくれたと思うけど。(それこそ、その時はA1サイズの大きなキャンバスでエアブラシ使って描きましたよ、アナログで)
専門学校
高校でデザインをひと通り学んだが、興味のあることはなんでもやりたかったので進学した。
進学の話でもめにもめたが、なりたい職業の話でさらにもめた。(ちなみに漫画家です)
そんなのなれるわけない!
わざわざ高い学費払っていくところじゃない!
高校受験のときも同じようなこと言われた気がするが、子供のころは我慢できたことでも自分の将来のこと。自分で決めたかった。
(今思えば自分で稼いで学費の足しにしてもらうっていう説得も出来たんだなと反省)
専門卒ですぐにその職業に就けたわけではなかったが、販売など他の職種を経験したあと、とある会社でなりたい方向性は違えど、デザインの仕事に就くことができた。
卒業後
専門卒業後すぐ、家を出た。
家に居れば、文句と否定の嵐で
自分はここにいてはいけないんじゃないか
生きてることがすべてダメなんじゃないか
と思ってしまうほど、母の言葉は強烈だったためだ。
ここにいたらダメになる。
そう思ってのことだ。
社会人となって、アパート暮らしが始まって自分の世界が広がった。
今まで否定されてた者でも生きていけるそんな世界もあるのだ。
親からだけでなく、私は小中といじめられっこだった。
家では母に否定され、学校へ行けばいじめられ
私のこころはどこに行ったらいいのか分からないでいた。
「早くオトナになって家を出たい」が私のひそかな夢だった。
家を出てからの自分は自由だ。
仕事も恋愛も自由。お金も自由に使える。
自由に自由になりすぎて失敗もした。けど、やっと生きてる感じがした。
いままでけなされたり否定されてたことが、社会人になってからスゴイと言われた。
絵を描けること、デザインができること、洋服にも興味があったので友達のスタイリストみたいなこともしていた。自分が何かをして人に喜ばれる 。
自分でも必要とされるんだ。
それを20歳のとき、初めて知った。
いまの病気になって実家に帰ることになる
ずっと実家には帰りたくなかった。
結婚してから少しずつ実家に行くことも多くなったが、母親とは相変わらずの関係だった。離婚するとき、「帰ってくればいいのに」と言われたが、ひとり暮らしを選んだ。
しかし今の病気で死にかけて、強制的に実家に戻ることになった。
ひとり暮らしのアパートの引き払い作業、会社との連絡など、両親がすべてやってくれた。これには感謝してるし、気持ち的にも大変だったろうと思う。
私が生きて帰ってこれたことは本当に喜んでくれたし、「いまはやりたいことをやりなさい 」と言ってくれて自由に好きなことを楽しんだ。
最初は体も安定してなかったので、ベッドの上でもできる本を読んだりブログを読んだり映画をみたり、がほとんどだった。
そして退院から一年ちょっとが経ち体調が安定したころ、ずっとやってみたかったパソコンで絵を描くことをやるためにペンタブとPCを手に入れた。(仕事でデザインすることはあっても、自由な絵を描くことはやってなかった)
古いパソコンが壊れてしまったのを機に、新しいPCとずっと欲しかったペンタブ、そしてクリスタ(お絵かきソフト)も手に入れ、やっと昔思い描いてた「絵を仕事にする」の体制が整った。
絵の仕事をしても認めてくれない
昨年から少しだけ絵(と手芸)でお金を頂けるようになった。
自分では仕事として考えてるが、母は「趣味でお金もらえるのいいね」と言っていた。好きなことからお金が発生すること自体はもちろん喜ばしいことで嬉しいことこの上ない感じだが、趣味でお金を頂いてる感覚ではなかった。仕事としてお金を頂いてる、と。
母は昔から、いい会社に勤めてお嫁に行ってほしかったひとだから、私が今、会社勤めをしていないことは恥ずかしいことだと思っているようだ。
もちろんまだまだ仕事は取れてないし、貯金だけじゃ先行きは不安な状態ではある。半年に一回の入院や手術と、検査や毎月の診察などにもお金はかかる(指定難病の医療費なので少しは安いけど)。
体調の変化も激しいので、ひとつひとつの仕事に時間をかけられないのも現実だ。
だから自分の描く絵にも、「出来るときに一気に描く」をしている。
これからの生き方
「フリーランスという働き方で、生きていきたい」という旨は母に何度も伝えてきた。
「病気だからできない」という生き方はしたくない。だからと言って「できないこと」はしない。普通の状態で歩けない、立ちっぱなしはできない、病状の関係で疲れたら寝ることを第一に考えなくてはならないから時間での拘束は不可能、からだにとっての負担のない生活が私には必要なのだ。
この夢を認めてもらうには結果が必要なのだ。
今までもそうしてきたように、結果がすべて。
(結果がでても認められてたかは不明だけど)
がんばっても頑張ってもなかなか認めてもらえないし、母親との関係はきっと相変わらずだろうが、私はこんな体でも自分の生活は自分でできるくらいの生活力と仕事力をみにつけ、少しでも認めてもらうよう頑張る。
これは闘いだ。
人生、母親との闘いなのだ。
勝利したいというより、逃げたくないという意味で。
おわり
追記(2019.12.05)
あれから、 約10ヵ月自分のやりたい方向性みたいなものが確立した。
そして、そのことを本気でやり始め少しずつだけどお金を頂いており、来年1月には開業届を出し自分で生きていくための準備をしている。
そして入院中、その旨を父と母に伝えた。
「そこまで考えてるんだね」
今はネットで色んなものを売れる時代。
ネットを使って色んなことへの挑戦。その様子を見て
ようやく今わたしがやっていることを理解してきてくれてるようだ。
母との関係は良好とはいかないものの、昔よりはうまくいってると思う。
好きじゃないところも、もちろんあるけど
それが母だから仕方ない。
母とはなんだかんだよく出かける
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